自分の人生を自分で決めることの意味、それは本当に自分で決めたこと?

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自分の人生自分で決める

『この家の跡取りになる気はあるかい?』
両親と一緒に夕食を食べていた時、久々にこのセリフを聞いた。

私の父親が発したこの言葉は私に向けられたものではありません。
 
この問いかけの先にいたのは小学生の男の子。
私の父からすると孫、つまりわたしの息子に向けられたモノでした。
   

自分の人生、自分で決めることが大切だ、わかっている、けど

 

そういえば私も『お前はこの家の跡取りだから』と小学生のころからずっと言われ続けていたことを思い出しました。

昔からずっとその言葉を聞き続けていた私には、ある種の呪いのように頭に張り付いていて、生き方、考え方すべての基本になっていました。

自分で決めたと思っていたことはすべて結局は家に戻って来るんだから、と半ばあきらめた気持ちで選んでいたことにやっと気が付いた時、自分は動く人形のようだと思いました。

気づいただけでは何も変わらなかったので、そのあとも間違った選択を選んだことは何度もあります。

今は、ようやくその縛りが綺麗に外れたと感じています。ただそれだけのことで生きることがものすごく楽になりました。

自分の人生は自分で決めているはずだ
なのにうまくゆかないのは、実は気が付かないうちに何かに縛られているからかもしれません。
 

自分で決めたつもりになっている?実は、誰かの意思に従っているのかも

 
イメージしてみてください。

ここは、とあるショッピングモールの中です。

あなたは今、仲の良い友人と一緒にショッピングに来ています
今度の外出の時に着るための洋服を選んでいます

そこでとても、気に入った洋服を見つけました
でも迷っています

同じデザイン、同じサイズの洋服で、色だけが異なる2枚の洋服

それぞれの色は、明るいオレンジと爽やかなブルーという真逆の二色
色が異なると、雰囲気は全く違って見えます

オレンジの方が良いかな、でもブルーもありかも、うーん

両方試着してみて、ブルーもいいし、オレンジもいい
よし、やっぱりオレンジに決めた、と思ったら
一緒にいる友人が
『ブルーめっちゃ似合うじゃん、超かわいい!』と言いました

その時、あなたはどちらを選びますか?

やっぱりブルー似合うんだ、と思って、ブルーに変えますか?

それとも、いや、最初の自分の直感に従おうと、オレンジを買いますか?

あるいは、せっかく似合うって言ってくれたんだから、ブルーにしようかな、ということでブルーに変えますか?
  

自分で決めたつもりになっている、でも実はだれかの好みを反映している?

 
昔、こんなことがありました。

私が、肩下20センチくらいのの黒髪のロングヘアから一気に茶髪のショートカットにしたときの周りの方々の反応です。

女性陣からは、

『思い切ったね~ロングもよかったけど、ショートすごい似合うよ!』
『どこで切ったの?茶髪もいいじゃん似合ってる』

という感じの反応で、どっちも似合っているよ!という誉め言葉をいただきました。

男性陣の反応が、本当に真逆で面白かったです。

『オオ!超似合いますね!良いっすね~』という人と

『エエ!切っちゃったんですか!?ずいぶん思いきりましたね…』という人

見事に二つのパターンにわかれました。
ちなみに、男性でカラーについて触れた人はほとんどいませんでした(色も変わってるんだけどなー)
と、それはともかく

前者の反応がショートカットが好きな男性で後者の反応がロングヘアが好きな男性ですね。これは非常に、面白いくらいにわかりやすかったです(笑)

で、ここから私が何を言いたいかというと
この時私は、髪を切った後だったこの反応を見て相手が自分の好みで反応していることに気づくことができた、ということです。

これが、髪を伸ばそうか、切ろうか迷っているときだったらどうでしょう。

長い髪が好きな男性は
『さくらさんは長い髪が絶対似合うと思うよ~』
と言うでしょう。

そして短い髪型を好む男性は
『さくらさんにはショートもいいと思いますよ、今は色んな形のショートヘアありますし』
と言うんですね。

これは本当に、相手に似合うかどうかを考えて言っているのではなく、好みをそのまま正直に言っているだけなんですね。(そうでない方ももちろんいらっしゃると思います)

それを聞いて
そうか、『私は長い(短い)のが似合うんだ』よし伸ばそう(切ろう)!
と決めたとして、それは自分の本心に従って決めたことになるのでしょうか。

こんな何気ない会話のなかで、相手が言っているのは自分の好みだってこと
普通はなかなか気づかないと思います。

さっきのワンピース選びでは

試着して自分が選んだのはオレンジ、鏡を見てあなたが自分に合っていると感じたのはオレンジです。そこはオレンジを選ぶと自分で決めたということになります。

ブルーの方にが少なからず、友人の好みが入り込んでいます。こっちを買ってほしいという友人の期待値です。ブルーに変えた場合は後々、どうしてオレンジにしなかったのかな、と思ってしまう瞬間があるかもしれません。

相談して自分で決めたよ、それって本当に自分で決めたこと??

人には、言葉が耳に入ると、それの内容を自分のこととして錯覚するという特徴があります。

日本人は、親しい間柄になると主語を省いて話すようになる、という特徴を持っています。

髪型の例え話のように
Aさんが『赤はいいよ』と言ったとします。
それは単純にAさんの好みについて言っただけなのですが

聞いていたBさんには
Aさんが『Bさんには赤がいい』
と言ったように認識されるということです。

言葉ってとても不思議です。

レストランで何を注文しようかメニューを見て考えているとき
本当に何にするか何も決まっていないときに偶然隣の席で注文している料理が聞こえて『あ、自分もそうしよう』と思って、注文した経験がありませんか?

自分の思考がゼロの時に偶然入ってきた言葉は、そのまま自分の意思として思い込んでしまうことがたまにあります。

私は昔から、迷うとと誰かに相談することが多かったです。
でも、相談するためには『参考意見として聞く』ことができていること、それが必須だったんだと、最近気づきました。

相談といいながら、実は決定を相談相手にゆだねているような部分が多々ありました。

相談相手が答えを出してくれることを期待していて、相談後に自分で決めたような気分になっていただけだったということです。

その結果うまくゆかなかったときには
○○さん(相談相手)がこう言ったからだ
と、いつの間にか誰かのせいにする癖がついていました。

自分で決めるということは、その結果として何が起きてもその原因は自分にある、ということです。

自分で決めるために必要なことは良い意味での自己中になること

何かを決めるときの判断基準はどこにありますか?

生きてゆくことには、人間関係が密接に絡んできます。

だから、他者の評価や他者の期待が気になって自分で決めたことは、関わる相手にとってはどうだろう?と考えているなら、それは相手のために自分の本心を変えようとしていることかもしれない。
少なくとも、私はそう感じます。

一人っ子の私は昔から
『お前はこの家の跡取りだ』
と言われて育ってきました。

だから、結婚するときはお婿さんを取るからお嫁には行かないってずっと思いこんでいたし、別の場所に住むっていう思考は全くなくて、付き合いが長くなるご近所さんの目には注意しないといけない。

親の期待に応えることが自分のするべきことでそうすることが良いことだと、自分で決めて動いているんだと信じていました。
その分、本当にやりたいと思ったことは、無意識に無理と諦めてしまっていたみたいです。

ある時、何かをきっかけにしてプチっと壊れました。

『必要なのは私じゃなくて、家のための跡取りの男子を産むことなんだ』
『男の子さえ産んだら用済みで自由になれる』

という考え方に変わっていました。
そして男の子が産まれたので、さっさとシングルマザーになりました。

今思えば、すごい思い込みのなかに入っていた時期でした。

本心を閉じ込めているといつか爆発してしまいます。
いい意味での自己中は、本心は隠さないことという意味です。

自分で決めることの意味、他人の勝手な期待に答える必要はない

子どもが産まれたときから思考はちょっとづつ変わってゆきました。新しい命のすごさを感じました。

親や他人が何を言おうと
人生かけて本気でやりたいと思ったら、本当はそこに進んで良いんだ
他人の期待から外れることに怯えなくていいんだ。

言割れていることは、相手の期待で
自分がそれに100パーセント答えなきゃいけないなんてことはない。

そこに気が付いたら
なんとも楽になって、なんだ別にいいんだ。
って思えるようになりました。

当時は、父親は激怒、私も東京に出ていて、みんなバラバラでしたが
そのころまだ元気だった祖母に会いに行くために(父親のいない時間を狙って)
実家にはちょこちょこ顔を見せに行っていました。

あるとき鉢合わせしたときはなんだかギクシャクでしたが
それ以降はごく普通に接していました。

気が付いたからそれまで縛られていたいたことを気にしなくなりました。

だから自分の子どもには、いつも言っています。
『どこに行っても、私がお母さんであることが変わらないよ。
会いたいときはいつでも会えるから、自由に好きなところに行ってやりたいことやっていいんだよ』

自己中になると、他人の期待に応えようとはしなくなる

子どもが小学校に入ったとき、授業が終わって家に帰ってもだれもいないので学童クラブに行くようになりました。

そのうちに『授業終わったらまっすぐ家に帰りたい。』と言うようになりました。

『じいちゃんばあちゃんのいる田舎なら、まっすぐ帰れるよ』
と言うと
『田舎に行く』
とかえってきたのでそれを機に実家へ戻りました。

実家に戻るのは高校卒業以来。

子どもはあっさりと小学校に慣れて、毎日友達の家に遊びに行くようになりうちにも友達が遊びに来るようになりました。子どもにとってはとても良い環境になったみたいです。

いたずらし放題、やりたい放題、叱られてもどこ吹く風。
時々じいちゃんに泣かされて
それでも隠れられる場所があって自由に動き回れる家の広さ。

実家に戻ってしばらくして、私は病気になりました。

子どものお世話に心配しなくていいから実家に帰っていてよかった。
そして
私の人生終わったな~

と考えていました。

ラッキーなことに後遺症なく復活した後は
こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない、そんなものは一切しなくなりました。

やらなくても問題ないってことが分かったので。

自ら動く理由は
自分がやりたいかどうか
もう一つは、相手のためにやりたいかどうか

もちろん、最初は文句を言われるときもありました。
言われる事はどんどん減ってきています。

今は、週末はセミナーに参加したり音声教材聞いたり、自分がやりたい事に関わることと、子どものお弁当作りや送り迎え、習い事にくっついていたり、子どもが自分でやりたいと言ったことを応援する事に使います。

両親とは、基本的に食事時間がずれているので
休日の食事を用意して一緒に食べたり、後片付けは私がまとめてやったり程度です。

無理に一緒にいなくていいもという感じになりました。
同じ行動をしなきゃいけないと思うからおかしなことになるんです。

ここでいう自己中は、自分勝手に集団行動を乱すような意味合いではなくて、周りの期待に答える努力はしない、という意味になると思います。

相手のために何かしたいと思ったら行動して、自分のことだけで人のために何もしないって言う意味でもないですよ。

自己中っていい意味、独立していると言う感じです。

自分で決めるためには嫌われる勇気がいる・目指す自分と遠いものには線引きも必要

ぶっ壊れた当時の私は、とにかく誰かに依存していました。

何というか、もう用済みだからどこかに居場所を探さないと
という感じで
心だけがふらふらしていました。

結局、自分が心ここに在らずなので
いろいろなことがうまく行かなくなって行きました。

何かに焦っていた感じもします。

今は、いくつかのセミナーに参加するために週末に家を空けることがあります。

そのために、セミナーのある日の行事ごとや
土曜日の仕事があるときは『どうしても外せない予定がある』とお休みしています。

休むことで評価が下がるなら
最初から不要という事だと思うようになりました。

もちろん、セミナー日程はかなり前からわかっていますので、
迷惑にならないようにお休みの連絡はひと月前にはしています。

突然入ってくる会合も、先に予定が入っていてどうしても動かせない、とお断りしています。

昔は、なんとかして全部出なきゃ、っていう思考の塊でした。

そうなると
本気で自分の行きたいところを最終的に我慢することで
全てを丸く納めようとしていました。

周りのご機嫌取るために
自分の一番重要なものを我慢するくらいなら
そこから離れれば良いんだ。

そこに無理に留まる理由はどこにもない。
そう思ったら、すごく楽になりました。

昔でいう『村八分』を恐れる必要って今の時代にはないです。
どれだけ昔の思考がインプットされていたのだろうと思います。

自分で決めると実は頑張らなくていい

最近気づいたことがあります。

本当に自分で決めたことは頑張らないけど頑張れる。続けられるんです。

頑張っていないんじゃなくて、頑張っているんです。
頑張ろうとして頑張っているわけではないというところが違っています。
やらされ感が無いというか、それをやってる自分が一番自然というか。

あー、やらなきゃって思うとできないのですが、やりたいと思っているとうまく行かなくてもできてしまうんです。

うまくゆかなくても、次またやろうと先に進み、途中で止ることがあってもそこでやめてしまうことはなくてまた始めます。

頭ではほとんど考えていなくて、行動が先に来ます。

これが、他人の影響を受けて決めたことだと評価を気にして頑張れなくなってきます。

分かりやすいのは、ダイエットです。
太っていると思われたくないからダイエットすると決める。

だけど、実は自分は、このくらいいいやってどこかで思っていると続かないです。ダイエットを成功させる人は、自分がなりたいイメージが明確になっている人です。

他者とのかかわりで、他人の評価が自分に返ってくるのを求めて頑張るのはなかなか難しいです。自分のために頑張っていることだけど頑張らないと続きません。

ボランティアのように、純粋に誰かのために何か役に立とうと評価を期待しないで他人のために頑張ることって、無心で体が動きます。

でも、ボランティアのようなことは活気あふれていないとなかなか行動には移りません。

自分のことは、自分の本心に従って決める。
そうすると、だんだんエネルギーのもとのようなものが体にたまってきて
徐々に誰かのために動けるようになります。

自分の人生は自分で決める。
その大切さは、あなたの本心を大切にすること。

私は、病気から復活した後、やりたいことができた時に両親に言いました。

『私はこの家には残らないよ。場所に縛られない自由にあちこちを動く身軽な生活をするよ。だけど、お葬式はちゃんとするから大丈夫』

完全に今までの呪いを振り切った瞬間です。

あなた自身が自分で決めたと思っていることのなかに、誰かの期待に応えようとして決めたことが混ざっていませんか?
固定イメージの中に自分を置き去りにしていませんか?

まずはそれに気づくこと、期待に応えることをやめて、本心に向き合ってみるともっといろいろなことができるようになると思いますよ。

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