子は親の鏡|だから子どもを見ると親(自分)が分かる

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子は親の鏡

自分の子どもに対してはついつい
「きちんとしなさい。これはやめなさい。」
と言ってしまう。

ところが、実は自分が子どもに言っていることは”あれ?実際には自分もでできていないことが多くない?”と思うようになった今日この頃です。

子どもは親の鏡、やっぱり親に似る?言うことは聞かなくても行動はよく見てる

先日、子どもと一緒に外出先から家に帰ってきた時のことです。
 
だいたい子どもが先に扉をあけて家に入るのですが「ただいま〜」と大きな声で言って、靴を脱ぎっぱなしで家の中へ。

”あー、またひっくり返ってる”

と思いながら子どもの靴は直して自分が靴を脱いで家に入るのですが、その後の自分の靴は〝そのまま〟にしていました^^;
 
もちろん、子供のようにひっくり返っていたりあっちこっちに散らばってる、ということは流石にないですが。
 
脱いだままになっているので、家の中から見ると
【子どもの靴は揃えて靴のかかとが家の側にあって、私の靴は揃っているけど靴のかかとが外側にある】
向かい合わせのあべこべ状態になっていました。

この状態をいつも見ていたら、揃えようとは思わないよな〜
と妙に納得した出来事です。

成長過程の子どもの行動は、そのほとんどが周りの人を写したものになっています。
親と接する時期の長い幼少期は世話をする母親に、学校にゆくようになると今度は先生や友達の行動。

そんな感じでいろいろな人から学んでそして写して成長してゆきます。
子どもに日々言っている言葉、実は自分もできていないかも?自分と今の子どもを見つめ直して私が感じたことを書いてみようと思います。

今までのような、なんとなく、ではなくもっと明るい楽しい未来に続く道を作るために。
子どもを見つめる目が変わりますよ。

きっと。

 

子どもは鏡、写しているのは・・・

 
そういえば、私は自分の子どもに「脱いだ靴を揃えるように」と言ったことはないような気がします。
少なくとも最近は一度も言っていません。

逆に、私はよく母親から言われています。
外から帰ってきたときの靴の脱ぎ方、と言うよりスリッパのことをよく言われます。
「出かけるときは、見えない場所において行って」
と。

最初は、何を言われているのか、よく意味がわからず???でした。
が、これは、自分以外の家族と一緒に生活していると木になることだとやっと気が付きました。

両親が日中家にいる実家では、昼間にお客さんが来るから、なのですね。
子どもと二人だけの生活の時は、自分が留守の時に誰かが来ても入ってくることはないので、出かけるときにスリッパが玄関の前でも、何も問題はなかったのです。

そして、自分が日中に家にいないと全く気がつかない。

家族と暮らしていると、自分が留守の間にも人の出入りがあるので気にしてほしい。
と言うことを毋は私に言っていたのです。

気をつけてはいても、慌てていると忘れますのでまだ身についてはいないみたいです。
ここは、いつか家族と暮らすことを考えて、一人暮らしの時からやっておいたほうがよかったと思ったことの一つです。

外履きの靴の話に戻りますが、私も出かけた先では靴は脱いだらきちんと揃えます。
そして子どもも、友達の家に遊びに行った時はちゃんと脱いで揃えているらしいのです。

確かに、習い事に連れて行ったりすると子どもも脱ぎっぱなしではなく、きちんと揃えて下駄箱へ。
帰るときは、いつの頃からか私の分も出して揃えて置いてくれるようになり!?
最初は荷物が多いから、と私が子どもにしていたことをいつの間にか子どもが私にやってやってくれるようになっていました。

子供は本当によく見ている!!行動を鏡に写しているよう

と思いました。

 

いつから逆転したんだろう?
と言うことにもあまり気がつかず、いつの間にか「ありがとう」に変わっていました。

一体どこで見ているんだろう、と思うくらいに子どもがよーく見ているのは、行動の一部始終ではなく、自分が体験した場所、時と場合の”使い分け”の部分とその結果なのではないかと思います。

家の外では揃えているのであれば、場所を区別して行動を選んでいると言うことなので。

となると靴なら、毎日家の玄関には揃った靴が並んでいることに慣れることの方が
「靴をきちんと揃えて」と言うよりも効果的なのかもしれないと考えました。

すると、いつもは並んでいるのに今日は崩れている。
”おや?乱れている。じゃあ直しておこう”
と言う思考が働くようになってゆくはず。

綺麗にしている行動を見せるより、綺麗な状態が保たれた空間に慣らすように。

私がこどもの頃は、玄関が狭くて靴のたくさん並んだ玄関が普通でした。
父親だけが
「靴が多すぎて、足の踏み場がない」
と言って自分の分の靴はしまっていた記憶がうっすら残っています。

家にいる時間が少なかったからか、ここで父親の真似はしなかったんですね。
その私が、靴を揃えることを自分の子どもに伝えようとしたら、まず自分が常に靴を下駄箱にしまう習慣をつけることが先。
靴を揃えている姿を見せるのではなく、整然とした状態が当たり前になっているのを見せ続けることが重要なのだと思いました。

子どもに伝えたいことは、まず自分が先にやって、身に着けること。
それが一番の近道で、きっと行動の部分は言わなくても習慣が伝わってゆくことだと思いました。

 

 

実は親を丸写し、子どもの言葉使いに家庭が透けるおままごと

 

子どもに直接、言っていることではないのに丸写しになっているものがあります。
それは、言葉

男の子は、おままごとで遊ぶ事はほとんどないと思うのですが、女の子のおままごと遊びを見ていると家でのお母さんの言葉使い、両親の会話が面白いくらいにそのまま出ています。
明らかに、子供が使う言葉ではないので、家で大人が喋っている言葉なんだな〜と言うのがすぐにわかります。

我が家は男の子なので、残念ながら自分の子が言っている姿を見るチャンスはなかったのですが、保育園で見かける女の子たちの言葉使いは
あ、家ではお母さんこんな感じなのね〜”
というのが丸わかりでした。

一緒に見ていたその女の子のお母さん本人も
「あれ、私じゃん!やだ〜」
と言うくらい丸写しになっていたみたいです。

私は、女の子だったらこうなるんだ〜面白い、と思って観察していました。
(男の子でよかったかも!?)

ただそれが、普通の会話の中に出てくるかと言うと、そうではないのですね。

おままごとしたりして、どこかの場面を作っているときに出てくるので、子どもは何かを写すときには
この場面ではこれを使うんだ
と言う形でいろいろなことを周りの人から学んでいるのです。

これは、男の子でも女の子でも同じ。
ちなみに私個人の感想としては、初めのうちは男の子は行動、女の子は言葉のほうに身近な人の特徴が表れやすいのかもしれないと感じました。

 

子どもの鏡が写し出しているのは親だけじゃない

 
子どもは鏡
 

幼稚園や保育園のうちは、家庭の中のこと、両親や家族のことが多く反映されやすいですが、小学校に行くようになると徐々に変わってきます。

男の子の言葉が変わってくるのが小学校入学前後くらいからと感じました。
兄弟がいる場合は、ちょっと違って下の子の方が早く変化のタイミングがやってくるのだと思いますが、うちの場合は、一人っ子なので小学校に入る頃から変わって行きました。

学校の先生やともだち、習い事などで一緒にいる時間の長い人、他には、たった一回会っただけでも強烈な印象が残った場合は、その人の何かが子どもの中にインプットされます。

この頃から親があれ?っと思う部分は、他の誰かを写して真似していると言うことが増えてきます。

「〇〇くんがやってるからやるの」とお子さんが言うことがありませんか?
逆に、何かをやらないことも、できないからやらないと言う理由の他に、やらない人がいるのをのを見てできるかどうか不明のものを自分もやらないと決めることもあります。

こんなことがありました。

たまたま、私の友人が
「茄子だけは小さい時から絶対食べられない。」と言うのを聞いただけで、子どもは茄子を避けるようになりました。
食べたことはなかったはずなのでこれにはびっくりしました。
現状は食わず嫌いの状態です。

でも、皮をむいて角切りにして、カレーに混ぜちゃったら気がつかずに食べていたので(笑)味が嫌いと言うことではなくて
”ナスが嫌い”
と言うことを真似していたら、それが当たり前になった
と言う感じなのだと思います。

成長してくると、いつも身近にいる人だけではなくて、いろいろな出会いの中で、よりインパクトがあって印象に残った方を上書きして学んでゆくようになるみたいです。

 

鏡には写していないよね・・・それは生まれた時から持っている感覚

 

ここまでは、子どもの行動が、誰かに似ているな〜と言うことを、ああ、あの時に覚えたんだな。 と納得できる場面を具体的に書き出してみました。

次は、
”え?なんで?見ても聞いてもいないよね?なんでそんなに似ているの?”
と思った出来事についてです。

私の子どもは、食べ物に結構(かなり)うるさいです。

一口食べて、美味しければ食べる、まずければ食べない。
匂いを嗅ぎ分ける、変な匂いがしたら絶対に食べない。

野生的というか、本能でおかしなものは避けて食べないだろうから、そこはまあいいのですが。

何がうるさいかと言うと、『食材を混ぜること』を嫌います。

例えば、カボチャの煮物。
カボチャだったら、カボチャだけの煮物でないと食べません。
他のものが混じっていると手を付けないのです。

「かぼちゃだよ食べないの?」
と聞くと
「カボチャだけにして」
と言います。

この発言を聞いた時の私と母(おばあちゃん)の感想・・・
『じいちゃんそっくり・・・』

当時はまだ、実家には戻っておらず、会うのは年に1回程度。
食事を一緒にしたことはなかったと思います。
だからおじいちゃんの真似事、ということではあり得ません。

ところが、この発言が出たのです。
遺伝情報には食の好みも乗っかっているのか
としみじみ思い、隔世遺伝と言う言葉が浮かびました。

この時点で、子どもには食の好みについてはあれこれ考えることは諦めました(笑)
持って生まれたものはそのままでいい、食についてはお腹が空けばなんでも食べるだろう、そう思うようにしました。

それこそ、食に限らず、何かしかもともと持って生まれてきたものは色々あると思います。

もともと持っているものの変化は、大きくなってからでも、超インパクトを持った誰かに出会った時に勝手に自身の意思で変えてゆくものだと思います。

そこは自然におまかせでいいと思っています。

 

じゃあ、子どもが親の鏡なのは一体いつまで?

 

なんとなく、子どもの目をいつまで気にしないといけないのかな・・・

と言う気分になってきてしまうときも出てきますよね。

たまには、自由人になりたいよ〜と開放感を求めたくなるような気分もわかります。
そんな時はちょっと考え方を変えてみませんか?

先日、友人と会った時に
『目標に届かなかったから剣道続ける』宣言を子どもがしたことを話したら

やっぱり似てるね〜、そういうところお母さんそっくりじゃん
と言われました。

”え?そうなの??”
と自分では気づいていなかった部分にちょっと驚きました。

どうやら、子どもが写しとるのは、自分自身は無意識の部分のことがとっても多いみたいです。

と、言うことは子どもを見て
”ここはこうしたほうがいいな”
と思うことがあったら、まず自分が実行する。
一度や二度じゃなくて、無意識にできるまで、身につくまでそうする。

すると、治したほうがいいと思う部分を自然と子供が写し取ってゆくようになる。

子どもを育てると言うことは、衣食住のお世話の他に、大きくなってゆく子どもを見て自分自身を直してゆくことなのかもしれないと思うようになりました。

大きくなって一緒に過ごす時間が短くなっても、子どもにとっては親がインパクトある存在であることには変わりはないです。

子どもが親の鏡であることは生きている限りずっと変わらないこと
自分のしたことが返ってくるのが子育て、と言う意識を持って自分の意識と行動を変えてゆこうと思います。

子は鏡|子育ては自分のしたことが返ってきている

 

自分の子どもをじっくりと見ていて
”んん〜?”
っと思ったところは実は自分にあることはとっても多いです。

最初は絶対に認めたくないですけどね。。。

子育てに悩んで自分ダメだ〜って思えたら、ある意味ラッキーです。
目に見えて分かっている部分の方が自分自身で直しやすいです。

そうやってゆっくり自分を変えてゆこうとしていたら、子どもの方が先に変わっています

考えたら当たり前ですよね、何しろ子どもは心も体も成長期真っ只中。
変化のタネを蒔いたら、自分よりも子どもの方に先に芽が出てきます

こう思っていた時期がありました。
”他の子はあれこれやるのに、うちのは何にも興味示さないな〜”

そう思っていた時は、私自身も何にも興味を持っていませんでした。

 

ある時、意欲的になろうと思ったわけではなく、偶然見つけたセミナーになんとなくの勢いで参加して、不思議にやりたいと思うことを見つけ、そこにかける時間が増えるようになりました。

と、間もなくして突然子どももサッカーを始めました。
ずっと
”やりたくない”
と言っていたのに。

今は、楽しくて楽しくて仕方ないみたいです。
私が進めたわけではありません。
私は何もしていないのにやりたい事、楽しめることを見つけてきました。

もちろん、誘ってくれた友達の存在があったのは確かです。

私が偶然発見したことと同じ、子どももキッカケになる出来事をスルーするのではなく、自分で始まりを掴めるようになったことはとても嬉しかったです。

子どもは親の鏡、子育ては自分育てでもある

 

『人生では自分のしたことが返ってくる』
毎日の行動一つ一つがとても大切なこと。
子育ては自分育てでもあります。

自分がこう育てられてきたんだから、子育てはこれでいいんだ!
と言うことを昔私はよく言っていました。

それでは、悪循環になってしまうことにやっと気づいて、今から進路変更に猛ダッシュな気分です。

やってもらって嬉しかったから、自分も子どもにやってあげる。
そこはOK。

嫌だったけど、やられたからやる、やってもらえなかったらやらない。
ここを、どうやったら良かったのか、それを自分で見つけることが子育て=自分育てになるんだと思います。

子供が写し取ってくれているのであれば、客観的に見るチャンスであり、試行錯誤は一人じゃなくて子どもと一緒にできるなんてすごいです。
ともすると、子どもが違和感を指摘してくれます!
それはとっても新鮮です。

一緒にいてくれる子どもに感謝しつつ、自分を育てつつ、自然と子どももよくなってゆく。
なんて素敵な循環なんだと思いませんか?

幼児期のように、四六時中べったりなわけではなくても。

下記は、子育てで有名な言葉です。

ドロシー・ロー・ノルト
『Children learn what they live』

このなかで著者ドロシー伝えようとしたことは

愛は探し見い出すものではなく
自分で生み出すというもので
この世の中の良いところを見て
希望をもって生きてほしい

子は親を映す鏡、この言葉は、まさに自分を見直そうね。
素敵なこと、良い循環を自分自身で見つけて、周りと一緒に幸せになろうね、と言う意味がこもっているんだと思いました。

日々の一つ一つの行動を大切に。明るい未来につながることを習慣にするようにしてゆきませんか?

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